今更ながら、『街並みの美学/芦原義信』を読んでいます。
本当ならば学生のうちに読んでいるべきであり、
ましてや僕が書いた論文的には読んでいてしかるべきなのですが、
今更ながら読んでいます。
街並みの話。
日本の街のつくりと西洋の街のつくりが違う、という認識は、
建築や都市を学ぶ人たちからすればもはや当たり前のこと。
木でつくられた家々が人が歩いた道に沿って拡大していくことによってできる日本の街並み。
石で強固に閉じられた城壁の中に同じように石でできた家々が連なり、同時に石で覆われた街路や広場が形作られることでできていく西洋の街並み。
生活の話。
そんな街で営まれる人々の生活も、またまた違ったものだったのです。
玄関で靴を脱ぎ、簡単に開け閉めのできる障子やふすまに囲まれ、畳の床に座りながら生活してきた日本人。
家の中でも靴を履き、頑丈な壁と鍵の取り付けられた扉のついた個室を持ちつつも広場に繰り出して日常を過ごす西洋人。
気候だったりそこでとれる材料の違いだったりが根本にありながら、
そんな街が人々の生活をつくり、
そんな生活を営む人々によって街はつくられてきました。
さて、境界の話。
(前置き長くなりました。)
日本と西洋では、その境界のでき方が、
心理的にも物理的にも異なっています。
これもまた割と当たり前、のように理解されている方が多いかと思います。
僕は心理的に生み出される境界というのは、びしっとそこにハードラインで引かれた線によって区切られるようなものではなく、
ある密度をもって濃く・厚くなってできるようなものだとイメージしています。
それを踏まえて、さらにこんな仮説を立ててみたりしています。
人間が自分とその周囲の環境との間につくる境界・隔たりっていうのは、
総量としてはどんな人でも同じ量になるのではないだろうか。
いっけんオープンな性格に見える人でも、実は心の奥底に自分しか知らない別人のような自分を持っていたり、
その逆も往々にしてあるんじゃないかと思います。
で、何を思ったかといいますと、
(息切れしましたごめんなさい)
そんな仮説やイメージが正しいとしたら、「無縁社会」と呼ばれる現在は、何かおかしい。
縁がなくなるというだけではなく、どこかに縁ができているはずです。
ではどこに?
すぐ近くに住む人に対して厚くなった隔たりは、
すぐ近くにはいない人、パソコン画面の向こう側にいる人、実際にはいないかもしれない人
に対して、
その分薄く引き伸ばされている。
単純に自分の同心円状にそんな隔たりの厚みが輪としてできるだけではない、
もっと複雑な様相を呈している。
そしてここでもう一つ感じたこと。
やっぱり、そういった心理的な境界は、物理的な境界と密接に結びついているということ。
物理的な、というのは今の時代にはもっと広く、環境的な、ということだとして受け止められると思います。
SNSの発達、情報やコミュニケーションの形が大きく異なるこの時代だからこそ、
やっぱりこの心理的変化は起きているのです。
隔たりの密度ができるイメージとそれが環境的な隔たりと重なってできるイメージ、
なんだかおもしろいなと、思った次第です。
なんだか行き着いた先も、ある分野の人にとってはまったくもって当然のこと、でしたね。
でも、個人的な実感が自分の中でズルズルとつながって、
より抽象的、根源的な論が得られることって興奮するし楽しい。
これだから考えることがやめられないわけです。
最後に。
もう一つわかったこと。
やっぱり文章書いているうちに何を書きたかったのかわからなくなるのが僕の弱点です。
とりあえずこのままアップします。
また修正します。
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