2013年9月10日火曜日
情報の密度/精度/大きさ と 体験 について
突然だが、最近の二つの体験を通じて、少し考えてみたことがある。
1.新海誠氏の最新作、言の葉の庭を映画館で見てきた。
2.国立新美術館で開催中のアンドレアス・グルスキー展に行ってきた。
どちらもめちゃくちゃ興奮し、感動したわけだが、実はその後の私に共通する事態が起きている。
1.自宅で見るDVDでは、あそこまでは感動しない
2.会場で購入した作品集を眺めていても、あそこまでは興奮しない
なぜだろう。
この時点で、いろいろと理由は思い浮かぶわけだが、
目下わたくしが述べようとしている事柄へフォーカスするために、もう少し掘り下げてみる。
私はいったい、何に感動/興奮したのか。
1.緻密に描写された雨・街・人の風景がもたらす圧倒的に美しい世界
2.具象が量と構成を伴って訴えてくる抽象的なひとかたまりの面の迫力
なんとなく言いたいことはわかるかもしれないが、補足をするという意味でも、個々の作品について少し解説を加えよう。
まず、言の葉の庭について。
この作品はアニメーション作家/新海誠氏による映画作品で、雨に濡れる新宿を舞台に繰り広げられる、靴職人を目指す少年と、歩き方を忘れた一人の女性の物語である。
言の葉の庭では、氏のこれまでの作品と同様、その異常なまでの緻密な描写により、ひとつの画面にはものすごい量の情報が込められている。
しかも今回その手法を用いて表現されたのは、雨をはじめとする時間軸をもった現象であり、ただでさえ濃密な情報をもつひとつひとつの画面が幾重にも折り重なって私たちの目に飛び込んでくることになる。
そこに音楽、声といった視覚以外の情報も組み合わさり、ひとつの世界とまでいってもいいような
立体的な情報環境をつくりだしているのだ。
次に、グルスキーの作品について。
アンドレアス・グルスキーはドイツ出身の写真家であり、彼の代表作の一つ「RehinⅡ」は地球上に存在する写真の中で史上最高額の値段(430万ドル)で落札されたことで有名である。(ウィキペディアより)
展覧会の解説等をもとに、無知なりに彼の作品について整理をすると、彼はいくつもの写真をコンピュータ上でつなぎ合わせていくことによって、ひとつの作品を作り出している。
通常、写真には焦点があり、その焦点(フォーカス)となる部分に対して情報が密になっており、その周縁部はぼやけ、情報の疎な部分が広がっている。これは私たちの目も同じだ。
その写真一つ一つをつなぎ合わせていくということは、必然的に通常の写真がもつものとは比べ物にならない情報量をひとつの面に集約していくということになる。
しかもそれは、全焦点ともいえるような、私たちが普段接している写真とは異なった状況を呈しており、彼の類まれな構成力により絶妙な構図をもった情報のあつまりとして、ひとつの面に集約されているのだ。
そう言う意味では、彼の作品は写真というよりも絵画のようであった。
少し解説が長くなってしまったが、話を戻そう。
私はなぜ映画館/展覧会では感動したのに、DVD/作品集ではそこまで感動しなかったのか、ということについてだ。
答えは単純。
膨大で高密な情報量をそのまま私たちに伝えるだけの大きさを伴っていたかどうかが、そのまま感動したかどうかに直結したということだ。
これだけ労力をかけてそれだけ?という声が聞こえなくもないが、私は今回の整理の中で、改めて情報と空間の関係について少し思うところがある。
どちらも、膨大な情報が私に迫ってきた結果として、私には感動がもたらされることになったわけだが、そこには
[情報]が[体験]に変換される
という作用がはたらいたことが重要なのではないだろうか。
ここで、既に整理したそれぞれの作品の特徴について、さらに解説を加えたい。
単純にものすごい量・質の情報を扱っているということについては既に述べた通りだが、両者にはさらに共通する部分がある。
どちらも、実際と抽象にまたがるような手法を用いて、ある種独特のリアリティを獲得している点だ。
言の葉の庭では、これまでの新海誠作品から一歩進み、さらなるリアリティを得るために景色を反射光として影の部分に取り入れるなど、より現実世界に近づくための試みを行っている。
だが一方でアニメ絵の大前提としてある、線色と面色による構成は崩していない。というよりも、むしろそれを活かしながら、独特の世界観を構築することを目指していると氏は述べてすらいる。
アニメーションがもつ抽象性から現実世界に向けて近づいていくようなベクトルだ。
一方のグルスキーの場合は、既に上文で述べたように、現実にあるものを扱いそれに手を加えて行くということをしている。
そう言う意味でアニメーションのそれとは逆のベクトルであるわけだが、さらにそこで付け加えるべきは、彼は単純に被写体をつなぎ合わせるだけでなく、そこで取捨選択を行っているという点だ。
彼の代表作として紹介した「RehinⅡ」は、ライン川の風景がもつ非常に強い水平性がそのまま強烈なコンポジションとして写真上に表現された作品だが、そのコンポジションを得るために彼は実際にはそこにある対岸の街並みを、画像の編集により消し去っている。
つまり、それはそこにある風景を映し出す写真としてそこにあるように見えるが、実際にはそこにはない風景なのだ。
そして手法は様々だがこのような傾向は彼のその他の作品にも共通している。
先ほど絵画のようだと評したが、やはり、これは絵画だといったほうがむしろいいのかもしれない。
このように、それぞれの作品でその質は異なるものの、そこにあるものは単純な事実ではなく、異化されたリアリティなのだ。
そしてこのような複雑なものを受け止め、理解する上では、やはりそれを[体験する]ということが非常に重要になっているのだと思う。
この考察をそのまま何かに適応できるかというと、あまりに単純すぎて使い物にならないことは重々承知だが、[情報]を[体験化]するために媒介となる[空間]という構図について、少なからず念頭においてみる必要は感じられた。
思っていた以上に長々とした内容となってしまったが、ここで語っていることは何よりも実際にその場に身をおいて実感していただくことがそのまま理解につながると思う。
言の葉の庭は残念ながら映画館での上映は終了してしまっているが、グルスキー展は来週末まで開催中だ。
是非とも、実際にこの事態を体験していただきたい。
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1.言の葉の庭 http://www.kotonohanoniwa.jp/
2.国立新美術館アンドレアス・グルスキー展 http://gursky.jp/
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